義母が亡くなった時の事

   2015/11/14

10月28日、夫のお母さんがガンで亡くなった。享年64歳。

2ヶ月の入院の後、奇跡的によくなって退院。2週間自宅でほぼ元気なときと同じように楽しく過ごしたあと、寝てる間に心臓発作のような感じで特に苦しまず、すぐに亡くなったよう。近所の人や親戚の人みんながいい死に方だったと言ってくれる。

夫も私も急きょ仕事を辞めてバリへ。私はお葬式(ガベン)には間に合わなかったけど、その後のMajar ajar(お寺にお母さんがご先祖様の仲間入りをしたことを報告にいく儀式)に参加。
夕方バリに着いて空港から車で約3時間。夜9時過ぎに山越えした町にある実家に到着。次の日朝3時には親族みんなバスに乗り込んでMajar ajarに出発。あまり休む暇もない。
lina(ご先祖さまのシンボル)をもって、5つのお寺へ参る。このlinaは絶対に落としてはいけないのだそうで、かなり気を使いながら運んだ。
コースは、
pura Lempuyang →pura silayukti → pura gelgel → pura goa lawah → pura besakih

家に着いたのは夜9時だった。

最初に参ったお寺pura Lempuyangで

最初に参ったお寺pura Lempuyangで

pura Lempuyangからの景色。早朝なのでアグン山がくっきりと美しく見えた。

pura Lempuyangからの景色。早朝なのでアグン山がくっきりと美しく見えた。

4つ目のお寺goa lawah。奥の洞窟には無数のコウモリが!

4つ目のお寺goa lawah。奥の洞窟には無数のコウモリが!

goa_lawah2

バリのお葬式や儀式についてはいろんなところで言われているし、面倒なのでかかない。
私もこれでバリの身内の葬式関連に参加したのは3度目。おじいさんのときと、夫の弟が事故で亡くなったとき。
100人以上の親族の中に突然入って、みんなが話してる会話もバリ語(私が理解でいるのは公用語のインドネシア語)なのでほとんど分からず、訳のわからない儀式の内容にとまどい、色んなストレスでものすごく大変だった記憶があったので心の準備を十分して行った。
そのためか、おかあさんが亡くなったショックからか、たぶん自分が年をとってオバハン化したせいでか、少々のことに動じなくなってきている気もする。けっこう楽にすべてのことをこなすことができた。

日本でずっと暮らしているとあまり感じないけど、バリも含めて途上国って、人がよく死んでよく生まれてる感じがすごくする。
交通事故だったり、病気だったり、医療のレベルが低かったり、いろいろな事情でそうなんだろうと思う。
おかあさんが亡くなった後も、二つとなりの家の奥さんがガンで亡くなったので、お葬式に参加したりして急がしかった。

で、生まれる方は、お金も仕事もないのに平気でどんどん子どもをつくってたりする。
無責任だと感じることもある。
でも、これって結構正常なことかもしれない。

 

以下におかあさんの病気が分かってからのことを少し記録した。
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義母は1年半ほど前から足が痛いと言い始めた。
年をとると少しくらい悪いところも出てくると、みんなあまり気にせずにいた。
義母はオイルをぬったり、マッサージしたりして、痛みを取ろうとしていたのだが、昨年10月、容態が変わった。

脚の痛みはどんどん増し続け、辛抱強い義母もとうとう耐えられなくなったのだ。
デンパサールの病院で腰の骨の組織を取って検査した結果、悪性腫瘍であることが判明。
バリの病院では手に負えないと、シンガポールの病院で検査することになった。

義父とマレーシアに住む義兄と夫の3人で、約1ヶ月間付き添うことになった。
義兄も夫も、無理をして仕事を休んでいた。
シンガポールの高度な医療のおかげで、義母の病名が判明。
肺ガンだった。

脚の痛みは肺のガンが腰の骨に転移したものだったのだ。
様々な検査を行い、義母の状態に一番適した薬と治療方法が選ばれる。
担当医から説明を受けた上で、義父はイレッサという薬を使うことにした。
イレッサとは、タバコを吸わずに肺がんになったアジア女性に一番効きやすい新薬だそうで、義母にはうってつけのようだった。ただ、様々な副作用も確認されており、日本ではまだ正式に認証されていないのだとか。

シンガポールでの一ヶ月の検査と、放射線などの治療を終え、あとはバリで毎日イレッサを飲み、一ヶ月に一回シンガポールに行ってチェックを受けることになる。夫もようやく日本に帰ってきた。
その後の経過はすこぶる順調。あんなに痛がっていた脚の痛みも無くなり、2度と普通に歩けないだろうと言われたのに、杖なしでゆっくりと歩けるほどになった。ただ、薬の副作用から、義母の顔は大きなにきびで赤く膨れ上がっていた。

以前、病気になる前、服や身の回りのことに一切無頓着な義母だったが、肌のことだけは気にしていた。
「昔は白くてきれいな肌だったのに、今は黒くなってシミがたくさん。何かいい化粧品ないかな。」
と私によく相談していた。私は日に当たらないことや洗顔方法のことなど、日本でよく言われていることを一通り説明し、高価な基礎化粧品もプレゼントした。あまり人の言うことを聞かない義母が、肌のことはめずらしく真面目に実践していたようで、何だかかわいく思えた。

その母の顔が今やにきびで大きく腫れあがっている。高価な基礎化粧セットも使われずそのままの状態だ。何ともいえない気持ちになる。

そしてもうひとつの大きな問題。お金だ。

義母は医療保険に入っていない為、治療費や入院費、シンガポールへの渡航費など、すべて全額負担になる。それだけでも相当な額だが、一番凄いのが毎日飲み続けているイレッサ。この薬だけで一ヶ月に20ジュタ(約27万円)以上を費やしている。日本人の私でもびっくりしてしまう。
夫の実家はわりと裕福ではある。普通のバリの家庭の場合、シンガポールで治療することなど考えられないだろう。ましてやこんな高価な薬を使うことなど。
ただ、裕福ではあるが、富豪ではない。1ヶ月20ジュタと、その他の渡航費等、一体いつまで払い続けるのだろう。私だけでなく、きっと家族みんなが心の中で思っている気がする。

 

2007年7月29日

イレッサを飲みはじめてから9ヶ月目、副作用のにきびもようやく治まり、その痕が黒ずみシワの増えた義母の顔。そんな頃、新たな副作用が出始めた。
ご飯を食べようとしなくなり、「だるい。」とベッドに横になった状態が続いた。シワの増えた母の顔は再び赤く膨れ上がっている。腕や手もむくんでいる。

レントゲン写真を見て義父と私は驚いた。左の肺が真っ白だ。

私の父親が日本から義母を見舞いに来てから数日後のことだった。

私は父と共に日本からバリに来ており、父は1週間で帰り、私はあと3週間、デンパサールの友人宅に滞在することになっていた。クタからプラマバスに乗ってやっとS町にたどり着いたときには、義母は既に病室にいた。この病院では一番高い部屋のようで、置かれている家具や調度品など、豪華だ。
病院の入り口は人だらけ。見舞いに来ている人たちなのか、みんな床にシートをひいて寝そべっている。

ここの人たちは見舞いが好きなようだ。病人の状態をあまり気にせず、とにかくまずは顔をみせることが礼儀となっているように感じる。

毎日20人ほどの人が仕事の終わった後、夜の数時間に集中して訪れ、義母のベッドのまわりを取り囲み、覗き込む。義母は息苦しそうだ。みんな決まって、ビスケットの詰め合わせか、食パンをお見舞いとして持ってくるので、テーブルはそれらでいっぱいだ。

でも今の義母にはとても食べられそうにない。

病院は2階建ての建物で、病室は2階。エレベーターを使う必要はないのだけれど、義父はこれを気に入って、いつも使うので私も一緒に乗ることになる。2階まで、30秒ほどかけて「ゴトンゴトン」と不思議な音をたてながら移動する。何でもこのエレベーター、以前ケーブルが切れて落ちたことがあるんだとか。

義母の容態は良くならない。顔はむくんで腫れあがり、息が苦しそうだ。

 

2007年8月2日

3日後、デンパサールの病院へ移動することになる。
この病院では設備が足りないからと、それまでに義父が何度もデンパサールの病院へ移動したいと相談しているにも関わらず、担当医はなかなか許可を出さない。医者のプライドからか、金銭的な理由からか・・・。この病院で一番高い部屋を借り、治療を受け続ければ医者も儲かる。

早朝5時、病院から救急車で義母をデンパサールの病院へ搬送する。義父は助手席に、私は若い看護士と共に後ろに乗りこむ。

S町からデンパサールへ向かう道はつづら折りで、普通の車でも疲れる。この救急車の揺れはひどかった。ガタガタと激しく縦に揺れ、そのたびに身体が少し宙に浮く。しかも急カーブを猛スピードで曲がるので、義母の身体が激しく左右に揺れ、看護士と私とで必死で支える。普通少し縛るとか何とかしないのだろうか。それにしても、「もっとゆっくり走って」と何度言っても救急車の運転手はなかなか言うことを聞かない。時間内に運べとでも言い渡されているのだろうか・・・。
義母はしんどくて頭が痛いと訴え、イライラした様子。クーラーは壊れているのか、上の風穴から生ぬるい風が吹き出している。
「今○○。」「今○○を越えたとこ。」「今○○通りを通ってる。」と、できるだけ義母に情報を伝える。
2時間後、やっとのことで、デンパサールの私立病院に到着。
入り口からはガムランの音色が聞こえ、そこかしこに胡蝶蘭の鉢植えが飾られている。まるで中級ホテルのような雰囲気だ。
義母を救急治療室のような場所へ運ぶ。義父と専門医らしき先生とが話しはじめたので、私はひとまず外の休憩所で待つことにした。ベンチに腰をかけるとすぐさま、病院のスタッフがそそくさとやってきて、紙を見せ、ペンを渡し、何か書いてくれと言っている。アンケートのようだ。

・最初に出迎えたスタッフの対応はいかがでしたでしょうか。
・ 病院の設備はいかがでしょうか。

義母の部屋は、4階の一番端。ここのエレベーターは普通なので安心する。S町の病院よりも随分と質が良さそうだ。見舞いに来ている人たちも、気のせいか、少し裕福そうに見える。
やっと少し義母の状態が分かる。肺に水が貯まっているそうだ。直ぐに肺に貯まった水をぬく。30分ほどで、1リットルほどもあるコカコーラ色をした水が出た。まだ全部抜ききれていないので、また数日後に残りの水を抜いていくそうだ。腫れていた義母の顔が急に普通の状態に戻り、笑顔も出始めた。しかし夜になると再び顔が腫れあがり、息苦しそうにし始める。

親戚の中に医者がいて、偶然この病院に勤務している。夫のいとこだそうで、以前義父が学費や住居など、世話をしていたそうだ。シンガポールでの治療の際、彼も付き添ったのだそうだ。見るからにかしこそうな面持ちと立ち振る舞い。義父の質問にも口ごもることなく、はっきりと明確に受け答えしている。きっととても優秀なお医者さんだ。毎日義母の様子をみに病室に来てくれる。

ただひとつ気になるのは、訪問の帰り際に、歌い始めることだ。歌というか、呪文というか・・・。
毎日のことなので覚えてしまったほどだ。
義母はもちろん寝たまま、義父は立ちつくし、うつむいたまま5分ほど続くこの歌を黙って聴くのだ。

彼は世界的なある新興宗教の熱心な信者なのだ。そのためか、実家のS町に帰ることもほとんど無く、村の祭りなどの行事に参加することもないそうだ。
「せっかく優秀で医者にまでなったのに、あれじゃ両親が可愛そうだ。」
と義母はよく言っていた。

看病を始めてから2週間ほど。慣れない環境でみんなが話している内容もあまり理解できないので、余計に疲れてくる。
ついに日本へ帰る日になり、少しほっとしつつも心残りなまま、義母とお別れをした。


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